ヘルプ

11.02.10.湯島聖堂(文京区)聖橋門

  • 66

写真: 11.02.10.湯島聖堂(文京区)聖橋門

写真: 湯島聖堂(文京区)入徳門 写真: 後楽園球場→東京ドーム

聖橋北詰東側。



mixiアルバム「湯島聖堂 昌平坂学問所」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012063237&owner_id=32815602
2011年02月20日 01:39

11.02.10.――
●徳川五代将軍綱吉は、儒学の振興を図るため、元禄3(1690)年湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移した。これが現在の湯島聖堂の始まり。その後およそ100年を経た寛政9(1797)年、幕府直轄学校として「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設した。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管となり、当初 学問所は大学校・大学と改称されながら存置されたが、明治4(1871)年これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵はその歴史を閉じた。ついでこの年、日本初の博物館(現在の東京国立博物館)、翌5(1872)年には東京師範学校、日本初の図書館(書籍館)、7(1874)年には東京女子師範学校が設置された。両校はそれぞれ明治19(1886)年、23(1890)年高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展した。
湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担った。
大正11(1922)年湯島聖堂は国の史跡に指定されたが、翌12(1923)年関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失。この復興は斯文会が中心となり、昭和10(1935)年工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と?大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たした。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61(1986)年度から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5(1993)年3月に竣工した。

●昌平坂学問所――
もともとは寛永7(1630)年、家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690(元禄3)年、綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。
1790(寛政2)年、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱にさいして一時閉鎖、その後新政府に接収され慶応4年6月29日(1868年8月17日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年7月12日(1870年8月8日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校・東京医学校が東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しかもちえなかったのだ┐(´Д`)┌

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。