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加賀国大聖寺藩下屋敷・品川弥二郎邸跡/須藤公園 (文京区千駄木3丁目)

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写真: 加賀国大聖寺藩下屋敷・品川弥二郎邸跡/須藤公園 (文京区千駄木3丁目)

写真: 加賀国大聖寺藩下屋敷・品川弥二郎邸跡/須藤公園 (文京区千駄木3丁目) 写真: 加賀国大聖寺藩下屋敷・品川弥二郎邸跡/須藤公園 (文京区千駄木3丁目)

[mixi] 須藤公園/加賀国大聖寺藩 (千駄木3丁目)コピペ
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2012年03月21日 23:11
12.03.13.
●大聖寺藩――
江戸時代初期、加賀国 金沢城代が大聖寺城で江沼郡を支配していた。
元和元(1615)年、一国一城令で廃城、この役職は郡奉行に改められた。
寛永16(1639)年、加賀藩2代藩主 前田利常(前田加賀殿。松平肥前守利常)が隠居する際、次男 利次に富山藩10万石、三男 利治に大聖寺藩7万石を割き、立藩する。
大聖寺藩の版図は、江沼郡の大半133村(6万5,700石余り)と、越中国新川郡の内9村(4,300石余り)であったが、万治3(1660)年に領地交換で江沼郡全域と能美郡6村となった。
3代 利直は、弟の利昌に新田1万石を割いて大聖寺新田藩を立藩させたが、利昌が大和柳本藩主 織田秀親を刺殺するという乱行に及んだために切腹、宝永6(1709)年に取り潰され、領地は大聖寺藩に復した。
4代 利章以降、備後守継承。
8代 利孝(としやす)は、文政4(1821)年、7万石から10万石への高直しを行った。3万石は、新田開発が1万石、加賀藩からの支援が2万俵(加賀藩の1俵は5斗であり、2万俵は1万石に相当。1万石の米は領地20,000石に相当)で捻出。
300諸侯中、最大の陣屋主となる。


●松平備後守――
◎松平飛騨守――
前田大聖寺家・大聖寺藩前田家、松平前田家・加賀藩前田家支藩

1.利治(としはる)、従四位下・飛騨守、侍従、正四位下
宗家3代利常3男。
小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人。
鉱山の開発に力を注ぎ、領内に金山銀山を発見している。この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、後の九谷焼の生産に結びつく。
※藩士の後藤才次郎を有田へ技能習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として始められたが、約50年後、突然廃窯となる。のちに「古久谷」、さらには「有田で焼かれたもの」と主張され(確実視)、現在も研究されている。

2.利明(としあき)、従五位下・大蔵少輔、飛騨守、従四位下、贈正四位
利常5男。
治水工事や新田開発、用水路改修や製紙業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した。名君と謳われる。

3.利直(としなお)、従五位下・大内記、飛騨守、従四位下
4.利章(としあきら)、従五位下・備後守、従四位下
放蕩三昧のバカ殿。
5.利道(としみち)、従五位下・壱岐守、備後守、従四位下、遠江守
6.利精(としあき)、従五位下・美作守、備後守
女狂い。心疾として監禁。強制隠居。
7.利物(としたね)、従五位下・美濃守
8.利考(としやす)、従五位下・飛騨守、従四位下
9.利之(としこれ)、従五位下・備後守、従四位下、侍従
10.利極(としなか)、従五位下・駿河守、従四位下
11.利平(としひら)、従五位下・備後守、従四位下
12.利義(としのり)、従五位下・美濃守、備後守、従四位下
13.利行(としみち)
14.利鬯(としか)、従五位下・飛騨守、〜、子爵、正二位

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