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11.03.24.男谷精一郎屋敷跡(墨田区両国4丁目)両国公園 勝海舟生誕之地

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写真: 11.03.24.男谷精一郎屋敷跡(墨田区両国4丁目)両国公園 勝海舟生誕之地

写真: 11.03.24.松平左衛門尉中屋敷跡(墨田区両国4丁目)両国公園 写真: 05.04.06.男谷精一郎屋敷跡(墨田区両国4丁目)両国公園 勝海舟生誕之地碑

mixiアルバム「墨田区両国3・4丁目/男谷信友/吉良義央」
コメント 2012年02月17日 00:48コピペ

●男谷信友――
おたに のぶとも。
下総守。通称 精一郎。号静斎、蘭斎。幼名新太郎。
寛政10(1798)年〜元治元年(1864)年。
幕末の幕臣、剣客。
直心影流男谷派を名乗る。
門下から、島田虎之助、榊原鍵吉などを輩出。その実力の高さから「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。


文化2(1805)年、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世 団野源之進(真帆斎)に入門。
さらに、平山行蔵に兵法を師事。
また宝蔵院流槍術、吉田流射術も学んだ。
文政6(1824)年、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。
文政12(1830)年、男谷彦四郎の養子となる。
天保2(1833)年、書院番に昇進。
嘉永2(1849)年、御本丸徒士頭となる。
安政2(1855)年、講武所開設。信友は講武所頭取並、剣術師範役を兼務。
信友は水野忠邦が老中の頃から、講武所開設の建議を積み重ねてきた成果である。
安政5(1858)年、師・団野の死により、亀沢町の道場を譲られ、移る。
文久2(1862)年、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられる。
文久3(1863)年、14代家茂の上洛に際し旗奉行を兼ねる。
元治元(1864)年、67歳で没。文化7年生まれ説では享年55となる。
深川増林寺に葬られたとされる。


江戸時代後期まで、剣術各流派の多くは、他流試合を禁じていた。
直心影流剣術も同様で、やむをえず立ち合う時は、「負傷責任なし」の誓約書を相手に書かせた上で、防具を使わず木刀で立ち合った。
松平定信が武芸奨励を施作後、他流試合が行われるようになり、これを積極的に実践して広めたのが男谷信友や伊庭秀業だった。
信友は、防具・竹刀を用いて打ち合い、申し込まれた試合は一度も拒まなかった。(江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほど。)
試合は、どんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせた。されど誰一人として「花」の一本より勝ちを取ることができず、底知れぬ実力と評された。
しかし大石進だけは、先取がせいぜいで、大石得意の左片手突きをかわすことができなかったという。
温厚な人格者として知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、「君子の剣」と称された。
天保から弘化にかけての一時期、島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われた。

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