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05.03.03.東光寺(板橋区板橋)宇喜多秀家供養塔

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写真: 05.03.03.東光寺(板橋区板橋)宇喜多秀家供養塔

写真: 11.01.31.旧中山道 板橋宿平尾追分(板橋区板橋) 写真: 05.03.03.東光寺(板橋区板橋)

「旧中山道中 板橋宿/近藤勇/宇喜多秀家」内コメントコピペ――
2010年10月19日 21:09
明治3年赦免。士族に加えられ明治天皇より板橋に宅地を賜わる。豪姫の実家前田家下屋敷地開拓時に建立。



mixiアルバム「旧中山道中 板橋宿/近藤勇/宇喜多秀家」コピペ――
2010年10月19日 21:08
●板橋宿――中山道最初の宿駅。南北に延びる宿駅部分を含め、村としての地域名称を示す場合は下板橋村が多く使用された。宿内で川越街道を分岐する。天保期(1830-44)には宿往還の長さ20町9間、うち町並地の長さ15町49間であったが、地子銭の免除はされていなかった。宿場町は、江戸側から平尾宿・中宿・上宿の三宿で構成され、それぞれに名主が置かれた。近世後期には平尾宿の名主を豊田市右衛門家、中宿の名主を飯田宇兵衛家、上宿の名主を板橋市左衛門家がほぼ世襲で勤めた。享保期(1716-36)には中宿を中心とする地域は「古町」と称されており、近世前期には中宿を中心に宿場町が形成され、次第に平尾宿・上宿に広がっていったと思われる。

※勘違いしている人が多いけど、五街道の一番宿駅、品川、千住、板橋、内藤新宿は「江戸」じゃないよ〜。
まあ。解釈いろいろで、後期には江戸市中にされていたようだけど…(所払いの内)、町奉行の範疇ではないままだった。家康入府から後期までにどんどん「江戸」は拡張されていったのだけど┐(-△-≡-△-)┌


●近藤勇 終焉地……(T_T)
新選組始末記では、勇五郎の話として「処刑の日の夜に刑場から勇の遺体を掘り返し、三鷹の竜源寺に埋葬した」とあり。かたや昭和4年、慰霊碑の改装を手伝った男性は、「この手で確かに私は近藤の骨をひろいました。首のない死体で、それを大きな壷に入れて再葬しました」と語っているそう。
この方は処刑前日に近藤が身柄を預けられていた?石山家の子孫で、そのお宅に伝わっている話では、「官軍側は遺体を埋めた場所に篝火を焚いて一晩中役人に見張らせ、責任者も金で買収されるような人物ではなかったから、掘り起こすなんて不可能」と。
近藤勇の遺体はどこか? 身内がわざわざつく嘘とは?
首も板橋で晒され、京三条河原で晒され、のち持ち去られてしまい、行方知れず…。


●宇喜多秀家――豊臣政権五大老の一人。通称「備前宰相」。大名家として最後の当主。備前岡山57万4,000石の大名。
関ヶ原後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現鹿児島県垂水市)に匿われた。このとき、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人は後に本郷伊予と改名、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。
島津忠恒並びに縁戚の前田利長の懇願により、罪一等を減ぜられて死罪は免除、駿河久能山へ幽閉される。慶長11年(1606)、同地での公式史上初の流人として伊豆諸島・八丈島へ配流となった。

関ヶ原参戦の大名で、最も長く生きた。
容姿端麗で身長170cmという美丈夫だった。
秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝をと述べている。
秀家は、ほとんど宇喜多とは名乗らず、羽柴や豊臣と名乗っており、豊臣一門の意識が強かったようだ。
秀家が関ヶ原西軍決起の発案者との説がある。三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日に、秀家は豊国社で早くも出陣式を行っている。高台院(秀吉正室)は側近の東殿局(大谷吉継の母)をこの出陣式に代理として出席させている。そのため高台院が東軍支持だったという説にはやや疑問が生じる。
策謀家の父と違って篤実な人物で、それが前田、島津の助命嘆願、さらには家康の助命にもつながったとされる。御家騒動においても、朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税を布こうとして重臣の反発を招いたというのが事実ではなかろうか。
豪姫に対する愛情は事実で、豪姫が病に倒れたとき、日蓮宗の僧侶が祈祷で病を治せなかったことが原因で改宗命令につながったのではないかとされている。



あ。この日の夜。(←05.03.03)
恐ろしい霊体験をしてしまいました……
ブルブル((((TT TT;))))シクシク

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