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写真:

相模台城(松戸市)
18.03.05.
別称、岩瀬城
築城年、建長元(1249)年
築城主、北条長時
城主、北条得宗家、芳賀兵衛入道禅可、新田氏? 高城氏?
改修者、高城氏?
標高25m/比高m
廃城年、延文5(1360)年?
遺構、堀切? 土塁?

6代執権 北条長時が館を構えたことに始まる。
嘉暦年間、15代執権 相模守高時がこの地に居住したときから相模台と呼ばれるようになった。鎌倉討幕後こちらも攻略されたようだが、その後しばらく不明。この時点で芳賀兵衛入道禅可が入城していたか?(足利尊氏存命中)
延文4(1359)年、将軍 足利基氏の命で芳賀兵衛入道禅可が入城。
※芳賀高名「武家家伝」様→ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/haga_k.html
翌年、新田義徳がこれを落とし、のちに和睦し廃城(一時)となった。
室町(戦国)時代、千葉氏家老の原氏家老 高城氏の支配下にあり、この頃再利用された。
天文7(1538)年、北条氏綱・氏康と里見義堯・足利義明との合戦 第一次国府台合戦にて1000人余が討ち死したと伝わっている。
(小弓公方 足利義明は里見義堯ら1万を従えて国府台城へ。北条氏綱2万は嫡男 氏康を連れ江戸城へ。里見義堯らは「北条軍の江戸川渡河中に討つべし」と進言するが、義明はこれを却下。これで士気を落とした里見義堯は非協力的となり、義明を見殺しにするように(のちに)戦線を離脱する。
渡河した北条軍は松戸城へ。
武勇に優れた義明は自ら陣頭指揮をとり、一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、その最中に弟 基頼(もとより)、嫡男 義純が討ち死、この報せから義明は氏綱軍へ突撃し戦死した。)
※参考「関宿城」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000098020194&owner_id=32815602


超参考「パソ兄さん」様→ http://www.pasonisan.com/review/0_trip_dell/11_0221houjo.html

千葉巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=14zVB7XrB0PEC_mRyP1GxYJ_VHRU&usp=sharing

アルバム: 公開

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