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写真: 釈尊寺(小諸市) 写真: 小諸城大手門(小諸市大手1)

mixi記事コピペ――2015年03月03日 11:54

15.02.25.
説明板参照∠(`´)ビシッ
むかし説明板→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=630476612&owner_id=32815602


●武田信繁──
大永5(1525)年〜永禄4年9月10日(1561年10月18日)。
幼名 次郎。
武田信繁。武田左馬助信繁。吉田信繁。武田典厩。典厩信繁。古典厩。
戒名 松操院殿鶴山巣月大居士。
同母兄 晴信より4つ下。同母弟 信廉は3つ下。
典厩は左馬助の唐名。
武田二十四将。
武田軍副将。晴信の右腕。
武田姓免除。御一門衆筆頭。

幼少期から父 信虎に寵愛される。晴信を廃嫡しようとまで考えるほど。
追放劇ののち、晴信は「仕方のないことだった」と信繁に頭を下げたという。
※父信虎追放に協力している。

領国城将として領域支配を行っていることが確認されない。
基本、甲府躑躅ヶ崎館に在住し、武田家の内政外交に参与。また、合戦に際しては晴信名代として軍事指揮権をもつ。先衆の統制官でもあった。
諏訪侵攻では大将(有力説)。

天文20(1551)年2月1日、信繁は武田氏庶流の吉田氏を襲名したと高白斎記にある。
※同時期に義信が元服していることから、信繁の庶流家 吉田氏継承は、武田宗家からはずれることで義信の宗家後継としての立場を明確にする政治的配慮があったという考察もなされている。

永禄元(1558)年4月、99箇条の家訓を作成。嫡子 長老丸信豊(次男)へ与えている。
※99箇条にわたる「武田信繁家訓」は甲州法度之次第の原型と言われる。

信玄は信繁の遺体を抱き上げ号泣したと伝えられている。
上杉政虎らからもその死は惜しまれたという(?)
信繁が生きていたら、信玄嫡子 義信の謀反はなかったのではないかと囁かれる。
※家中不和は甲斐武田氏伝統。

「惜しみても尚惜しむべし」と悲嘆の声が聞かれた。
山県昌景いわく「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」(甲陽軍鑑)。
武藤喜兵衛昌幸はその勇名に肖り、次男に「信繁」と名づけている。
江戸中期の儒学者 室鳩巣(むろきゅうそう)いわく「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」(駿台雑話)。

まことの武将、仁愛智勇の将、文武両道、ほか称賛大絶賛!


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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コメント (1)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    2015年03月03日 11:55
    ※追放劇──
    最近の研究(2013チェック)では、
    ・一国の大名として力が強過ぎる。(乱れに乱れた甲斐国人衆の戦乱を統一している。家中内訌も落着せしめている。)
    ※よって、それを恐れた今川義元共謀説。
    ・強烈な(凶悪な?)専制君主。
    ・家来とくに国人衆を粗末にあつかう(諫言を述べる者を斬り捨てる)。
    ※信虎の味方はいなかった。
    ・軍役・徴税ほか、民衆からの不人気。(怨嗟。内政能力は低かった説。)

    若くてコントロールしやすい晴信(21)を擁立しようというのが真相だろうとされている。(信虎同様見くびられていた)

    ※晴信入道信玄は合議制。
    勝頼は専制。

    2018年1月20日 14:22 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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