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蕃松院(佐久市)

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写真: 蕃松院(佐久市)

写真: 磨崖青面金剛像(佐久市) 写真: 蕃松院(佐久市)

依田右衛門佐信蕃、弟 源八郎信幸の墓。



mixi記事コピペ――2015年02月28日 21:30
●依田信蕃──
よだのぶしげ。常陸介。右衛門佐。
芦田信守嫡子。幼名源十郎。
天文17(1548)年〜天正11年2月23日(1583年4月15日)。
※芦田信守──あしだのぶもり。生年不詳〜天正3年6月19日(1575年7月26日)。実父不詳。通称は四郎左衛門。芦田下野守(備前守?)。

芦田氏は依田氏庶流。元は信濃国の一豪族、一国人であったが、守護代であった大井氏に呑み込まれた。父 芦田信守は重臣的立場にまでなっている。大井氏の家中は「一に芦田、二に相木(阿江木)」と称されていた。

南北朝期。依田氏(依田荘)、芦田氏(芦田郷)は、大井氏、守護小笠原氏、山内上杉氏ら幕府勢に攻められ落ちていった。
室町期。主君となった大井氏宗家が村上氏に滅ぼされると、芦田氏は独立したと考察されている。
戦国期。武田氏・村上氏・諏訪氏の連合軍が海野氏を攻撃、これを破り海野平とその周辺を領地とする。関東へ落ちた海野氏は山内上杉氏を頼るが、山内上杉氏は戦端を切ってまもなく、相手方優勢と見撤兵した。
芦田郷を領したのは諏訪氏で、芦田氏は諏訪氏の傘下となる。芦田郷は芦田氏で治めよとの諏訪頼重の差配に従った時の当主が芦田信守。
そののちの天文11(1542)年7月、諏訪氏が武田晴信によって滅ぼされる。翌年、晴信は長窪城を攻撃、大井貞隆を生け捕り、つづいて望月城を攻めて望月氏を降伏させて甲斐へ帰った。
諏訪氏没落のとき武田氏へ従ったとも、そののち大井氏へ帰参したが相木氏とともに武田氏へ内応して降ったとも伝わる。
以降、武田氏の信濃国先方衆としての芦田氏の活躍は「依田記」などに詳しい。
信濃国平定ののちは武蔵国、駿河国へも出陣した。
※信守が芦田苗字、信蕃が依田苗字の名乗りについては子細不明。

信玄死後もそのまま武田氏へ仕えている。
天正3(1575)年、長篠合戦。このころ芦田信守は遠江国二俣城の城代を命ぜられていた。信蕃、信幸兄弟も詰めている。
内実はともかく武田氏は長篠・設楽原で大敗を喫し、名だたる重臣らと1万以上の兵力を失った。
※本戦で内藤昌秀(昌豊)、山県昌景、馬場信春、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、横田康景、甘利信康、安中景繁、望月信永(信繁3男)、米倉重継、山本勘蔵など。
鳶ヶ巣山砦等奇襲戦で河窪信実(信虎7男? 11男児のひとり)、三枝昌貞(守友)、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友、春日昌澄など。

信玄死後から攻勢をかけ三河国を完全に掌握していた徳川家康は、遠江国の要衝である諏訪原城・二俣城・高天神城の攻略へ進む。
天正3(1575)年6月、二俣城攻め。このとき信守は病床にあり、戦中に病没した。当主そして城代は嫡子 依田信蕃か継承する。
信蕃は僅かな手勢で堅固に守った。家康は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めをとる。半年が経過しても落とせなかった。
(この間の8月、諏訪原城をおとしている。)
同年12月24日、家康は攻城戦をあきらめる。城兵の安全な退去を条件に開城、依田信蕃は高天神城へ撤退した。退去の際、城内を清掃してから整然と退去したと言われている。
こののち駿河田中城の城将となった。
(天正9(1581)年8月、高天神城落城。)

天正10(1582)年、甲州征伐。徳川家康、田中城攻め。守るは依田信蕃。またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。
家康は早々に切り替え、成瀬正一を開城説得の使いにたてる。成瀬は家臣の多くが主家を見限り離れている旨を話す。しかし信蕃は自身で確認するまでは動かないと応じた。
次に家康は、すでに本家を離反していた穴山梅雪へ書簡を記すよう指示。一門衆筆頭からの書簡に、信蕃は二俣城同様に(上には記さなかったが)大久保忠世への引き継ぎで開城を承諾する。
同年2月20日、明け渡し。
このとき家康は徳川家への仕官と本領安堵を提示しているが、主君の生死、武田家存続の確認までは承諾し兼ねると応じ、自領佐久郡の春日城へ戻った。
3月11日、勝頼、信勝、北条夫人、自害。甲斐武田氏滅亡。
織田軍による残党狩りが進む中、家康は失うに惜しい信蕃へ従者を送り、二俣の奥小川へ匿った。これにより信蕃は家康の招聘に応じた。

同年6月、本能寺の変。
同16日、神流川の戦い。北条氏直に敗れた滝川一益が同20日に家臣 道家正栄の守る小諸城に入る。
同22日、信蕃は滝川一益へ佐久・小県郡の人質を集め、引き渡した。この人質には嫡子 竹福丸や真田昌幸の母 恭雲院が含まれていたという。
同27日、一益は小諸城を信蕃に明け渡し、28日には諏訪から木曽谷へ入り、約定を交わした通り佐久・小県郡の人質を木曽義昌にゆだねた。
7月1日、一益は自領 伊勢長島へ帰還。
9月17日、佐久・小県郡の人質は、木曽義昌から徳川家康へ引き渡された。

7月12日、北条軍が碓氷峠を越えて進軍。真田昌幸ほか佐久郡小県郡の豪族を味方にしていた。
当時「甲斐一乱」と呼ばれたこの動乱(天正壬午の乱)は、長篠設楽原の敗戦による武田氏領国の動揺をきっかけに、甲州征伐による混乱・殺戮、本能寺の変による織田勢力の撤退、徳川・北条・上杉らの新たな侵攻、甲信の豪族・国人らの対応、真田氏の蜂起など、めまぐるしい情勢変化を生んだ。

信蕃は小諸城を放棄、三澤小屋に籠城した。その後、ゲリラ戦を展開して甲斐国若神子まで進出していた北条軍の補給線を寸断する。
7月14日、芝田康忠、辻弥兵衛、
9月25日に岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊ら武田遺臣を主体とした家康の援軍が三澤小屋へ集結。
同28日、信蕃は北条方だった真田昌幸を調略。
(甲信における各地の戦闘は、戦力で上回るはずの北条方の相次ぐ敗戦だった。これにより国人らはどんどん徳川方へ移っている。)
※すでに余計に、興が昂じていろいろ書いてしまっているが、ここはあくまで「依田信蕃」の項なので……。

10月26日、自領 春日城を奪還。
10月29日、郡内地方で徳川に敗れた北条は領土拡大をあきらめ、徳川との講和を成立させた。
講和条件は、甲信は徳川、上野は北条の切り取り次第。北信は上杉、上野は真田昌幸が切り取った。徳川は悪戦苦闘が続く。北条は結果何も得なかった。

多大な戦功を上げ続ける信蕃は、大道寺政繁を破ったのち小諸城の城将となっていた。そこに、武田遺臣らも集っていた。
天正11(1583)年2月23日、大井行吉の岩尾城攻めに入る。即座に落とせると考えていた信蕃は予想外の抵抗にあった。攻城戦3日目、戦果に焦ったか先頭に立って督戦していたところを敵の銃弾に倒れた。享年36。
この時、弟の信幸も討ち死にしている。


(書くまい書くまいと思っているのに……)
※徳川と北条の講和によって上野国は北条の切り取り次第となったが、上野国沼田は真田領である。徳川は形式上従属した真田に対し沼田を北条へ明け渡すよう求めたが、これに対し真田は代替地を要求、徳川はこれに応じず両者の関係は悪化。双方に縁のある依田信蕃が仲介役となって奔走していたが、信蕃が戦死すると両者の溝が決定的となった。
徳川にとって真田の領国は、対上杉の失うことのできない重要な要衝だった。適当な対応がとれずにいる中、真田は対上杉の名目で上田城を築城して本拠を移すと、上杉に寝返り徳川と敵対した。
天正13(1585)年、第1次上田合戦……

(ここまで! ここまでで!)

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