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写真:

写真: 稲荷山城(佐久市)

西角。砲台跡。



mixi記事コピペ――15.02.24.
五稜郭、龍岡五稜郭、桔梗城
築城年、慶応3(1687)年
築城主、松平乗謨
城主、大給松平氏
廃城年、明治5(1871)年

松平乗謨・奥殿藩松平家→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1846415276&owner_id=32815602

奥殿藩庁は三河国の奥殿陣屋(現 岡崎市奥殿町)にあったが、領地の大部分(1万6000石中1万2000石がコッチ)は信濃国佐久郡にあり、佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた。藩庁の信州への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て、文久3(1863)年に藩主の乗謨は届け出、許可を得た。
(幕末、国内情勢が緊迫するなか東海道沿いにあっては動乱に巻き込まれることが懸念されたため、領地の狭小な奥殿から退避する意味もあったという。)
乗謨は西洋の軍学を学んでいた。砲撃戦に対処するための築城法を心得ていたことから、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計する。文久3(1863)年11月、いくつかの築城候補地の中から田野口村を選定した。

元治元(1864)年3月、建設開始。
総工費は4万両。
慶応2(1866)年12月、石垣と土塁竣工。
慶応3(1867)年4月、御殿など完成。
完成時には領民や藩士にこの新型城郭の見学を許している。
(乗謨は老中格・陸軍総裁に就任、公務に忙殺された。経済的・時間的余裕がない状況により、石垣工事は簡略化されるなど、未完成部分が多いという。)
廃藩置県後の明治5(1872)年、建物は解体され、競売に付された。堀も埋められるが、昭和初期に住民によって復元された。

城跡に残された御台所櫓には、明治8(1875)年に田野口村の尚友学校が移転。以後、現在の市立田口小学校に至るまで城跡は小学校として用いられている。
昭和9(1934)年、「龍岡城跡」が国の史跡に指定。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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