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本多横丁 ・三年坂(神楽坂)

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写真: 本多横丁 ・三年坂(神楽坂)

写真: 本多横丁 ・三年坂(神楽坂)

mixiアルバム「新宿区神楽坂 2/牛込 ・牛込城/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012265719&owner_id=32815602
2011年02月22日 11:34

神楽坂、袋町、岩戸町。

2011.02.14.――
●袖すり合うも他生の縁∠(´`)ビッ ご照覧、よろしこデスw


●牛込――
大宝元(701)年、大宝律令により武蔵国に“神崎牛牧(ぎゅうまき)”という牧場が設けられ、“乳牛院”という飼育舎がこの地に建てられた。古代の馬牧(うままき)”が今日東京都内に駒込、馬込の地名で残されているところから、「牛込」がこの牛牧に比定された。
(※勅旨牧(ちょくしまき)は、古代日本において、天皇の勅旨により開発された牧場で、馬寮などが用いる軍馬などの供給源であった。御牧(みまき)とも。官牧には、ほかに諸国牧、近都牧が存在した。)

江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で、伝統ある山の手の住宅街。
狭い路地はほぼ江戸時代のままであり、また住居表示に伴う地名の改廃が他地域にくらべて極めて少ないため、江戸の雰囲気を感じ取ることができる。
明治5(1872)年頃、東京各地にホットミルクを一杯頼めば新聞が閲覧できるという“新聞縦覧所”ができはじめると、にわかに牛乳の需要が増え、その名に違わず牛込区内でも神楽坂、若松町、市谷等において牛畜が広く営まれ、渋谷・代々木あたりの畜農家とライバル関係にあった。
欧米の文化の流入で牛乳の需要が増え、明治19(1886)年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、たくさんの乳牛が飼われていたことがわかる。
東京には“檜前の馬牧”“浮嶋の牛牧”“神崎の牛牧”が置かれたと記録にあり、“檜前の馬牧”は、現 浅草と考えられています。

※牛込城――
確実な史料はなし。
伝承では、現在の光照寺(新宿区袋町)を中心とした一帯に牛込城があったとされる。上野の豪族であった大胡重行が、上杉から北条へと主君替えをした後の1526年頃、武蔵国牛込から日比谷あたりにかけての領地を北条氏よりあてがわれ、息子 勝行が移封。勝行は地名をとって牛込氏を名乗り、牛込城を築いて居館とした。
領地を一望にできる高台の館で、江戸湊に出入りする船も視認できたそうな。北条氏の滅亡(天正18(1590)年)および徳川家康の江戸移封後、廃城となり、跡地に神田光照寺が移転してきたのは寛永21(1645)年のこととされる。

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