ヘルプ

小石川伝通院(文京区)本堂

  • 79

写真: 小石川伝通院(文京区)本堂

写真: 小石川伝通院(文京区) 写真: 小石川伝通院(文京区)

mixiアルバム「傳通院 (小石川伝通院)」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000053960012&owner_id=32815602
2012年03月20日 15:27

●無量山傳通院寿経寺――
むりょうざん でんづういん じゅきょうじ。
俗称、小石川 伝通院。
浄土宗。
本尊、阿弥陀如来。(平安時代の僧 源信(恵心僧都)作とされる。)
応永22(1415)年、浄土宗第七祖の了誉聖冏(りょうよ しょうげい)が、江戸 小石川極楽水(現 小石川4丁目)の草庵にて開創、山号を無量山、寺号を寿経寺とした。開山は、弟子である酉誉聖聡(ゆうよ しょうそう。増上寺開山)の切望によるものという。
(現在当地には、家康の側室茶阿の局の菩提寺、吉水山宗慶寺がある。)

慶長7(1602)年8月、家康の生母 於大の方(水野氏)が京都伏見城で亡くなる。家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬。位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立する。
慶長8(1603)年、家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て始め、法名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなみ、院号を傳通院とした。
当初、菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬しようとしたが、「増上寺開山の聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に、新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世 観智国師(かんち くす(こくし)。源誉存応(げんよ ぞんのう))の言上を受け、傳通院の建立を決めたという。
慶長13(1608)9月、堂宇竣工。観智国師門下の学僧 正誉廓山(増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。

徳川家菩提所次席。
増上寺、寛永寺とあわせ江戸の三霊山と呼ばれる。
高台の風光明媚な地であったため、富士山、江戸湾、江戸川などが眺望できたという。

文久3(1863)年2月4日、浪士組が山内の塔頭 処静院(たっちゅう。しょじょういん)で結成される。山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨ら250人が集まった。

彰義隊結成のきっかけの場にもなったという。

徳川幕府滅亡により、その庇護は完全に失われる。

明治2(1869)年、勅願寺となったが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のため、塔頭・別院の多くが独立し規模もかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止み(政府は廃止とした)となる。

同じ浄土宗の信濃 善光寺と交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となる。
(門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになった。)

明治23(1890)年、境内に移した浄土宗の学校を元に、淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を創立。
この時代になって墓地が一般開放され、庶民の墓も建てられるようになった。

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。