ヘルプ

津軽藩上屋敷跡(墨田区亀沢2丁目 緑町公園)

  • 159

写真: 津軽藩上屋敷跡(墨田区亀沢2丁目 緑町公園)

写真: 津軽藩上屋敷跡(墨田区亀沢2丁目 緑町公園) 写真: 津軽藩上屋敷跡(墨田区亀沢2丁目)緑町公園交差点

mixiコメント 2013年08月09日 23:18
●津軽越中守――
津軽弘前家・弘前藩津軽家、津軽家宗家

1、為信、従五位下・右京亮、従四位下・右京大夫
南部家→ リンク
高岡藩(のちの弘前藩(ひろさき))の領地と石高は、陸奥国津軽郡4万5000石と、関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市の一部)2000石の計4万7000石。
天正17(1589)年、家臣 八木橋備中が石田三成を介して豊臣秀吉へ名馬と鷹を献上、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならび合浦一円の所領を安堵される。しかし、後の奥州総検地で1万5000石は太閤蔵入地とされる。
天正18(1590)年4月、沼津で秀吉に謁見。石田三成、羽柴秀次、織田信雄を介して南部家の訴えの釈明を果たし、独立した大名として認知された。秀次、信雄にも鷹を献上している。
以来、三成とは親密になる。
為信は早くから近衛家に接近し、折々に金品や米などの贈物をしている。上洛した際に元関白 近衛前久をたずね「自分は前久公の祖父 尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張している。
関白職に就きたいが家格の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信から財政支援を受けていたことから為信も猶子にした。このときから本姓を藤原とし、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。この時、秀吉と為信は形式上義兄弟となった。(この頃秀吉が為信に宛てた書状は「南部右京亮」。)
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦では東北諸国がすべて東軍という状況から3男 信枚とともに東軍として参戦する。しかし、嫡男 信建は豊臣秀頼の小姓で大坂城にいた。西軍が敗走すると、信建は三成次男 重成らを連れて帰国。為信はこれを保護した。また、高台院(ねね)の養女になっていた三成3女 辰姫を信枚の室に迎えている。これらは三成への報恩という説がある。
東西両軍に参陣したのは、真田家同様生き残り策を狙ったと考察する学者もいる。論功行賞において上野国大館にわずか2000石あまりの加増しかなかったこと、そしてそれが信枚への論功であったことから――。


2、信枚(信牧。のぶひら)、従五位下・越中守
3男。正室は徳川家康養女 満天姫(松平康元娘)。側室に高台院養女 辰姫(石田三成娘)。
寛永4(1627)年9月、高岡城の天主が落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失。この天守炎上は、信枚の伯母(初代為信の正室 阿保良の姉)が失意の内に病没した祟りと当時は信じられ、それまで「高岡」と呼ばれていた藩都を、寛永5(1628)年8月、天海が「弘前」と改め(天台密教での破邪の法から名付けた)、藩名も以後、「弘前藩」と呼ばれるようになった。

3、信義、従五位下・土佐守
嫡男。
暗君と言われるが、藩士4人が殉死している。
4、信政、従五位下・越中守
嫡男。
晩年は失態を重ねたが、弘前藩の全盛期を築き上げた手腕は高く評価されており、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主と呼ばれている。
津軽塗発祥時の為政者。
明暦の大火のち、神田にあった上屋敷地は召し上げられ、本所へ移された。当時本所は未開発地域で、大名屋敷のひとつもない土地だったため、屋敷普請にもずいぶん苦労したとか。
元禄2(1689)年、黒石津軽家分家旗本が断絶。その1000石が収公され4万6000石となる。
元禄11(1698)年、幕府との間で領地を交換し、大舘領1000石を返上・陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)1000石を所有した。
赤穂藩家老 大石内蔵助の親族 大石郷右衛門良麿が津軽家に仕えている。
信政は内蔵助とは山鹿素行流の同門。
元禄赤穂事件当日、この日の「弘前藩庁日記」(江戸日記)には、「天気好し」と記されている。
旧浅野家藩士処分などの失態事件を起こす、などとアチコチに書かれているが、仔細はいずれにも書かれていないためわからない。

5、信寿(のぶひさ)、従五位下・出羽守、土佐守
次男。
6、信著(のぶあき)、従五位下・出羽守
嫡孫。
7、信寧(のぶやす)、従五位下・土佐守、右京亮、出羽守、越中守
嫡男。
借金35万両。
この頃より以降、不正をはたらく家臣が続出。

8、信明(のぶあきら)、従五位下・出羽守、土佐守
嫡男。
宝暦12(1762)年生まれ。
幼少期から才能に恵まれていたという。宇佐美恵助、戸沢惟顕らから教えを受けた。
当時名君と称えられていた肥後国熊本藩 細川重賢、出羽国米沢藩 上杉治憲、陸奥国白河藩 松平定信らと親交を持っていた。
天明4(1784)年、父の急死により家督継承。この頃、弘前藩は天明の大飢饉で死者13万人と言われるほどの大被害を出し、その救済費などによる出費から財政が悪化していた。
信明は財政改革に乗り出し、乳井貢、毛内有右衛門ら有能な藩士を登用、不正を行なう家臣は厳罰に処した。
有右衛門の進言にて、藩士の帰農、土着を行った。織田信長時代以前の半農半士の状態へ戻すという策を出した。武士の窮乏は、武士が年貢である米に頼りすぎるからであるといった。領内は飢饉ほか天災が相次ぎ、領地は荒廃、百姓は差し出す年貢もなく、田を捨てて逃亡するという有様だった。そこで、藩士を半農半士にし、荒廃した田畑を復興させるとした。当初は反対も多く、はじめは希望者のみとした。のちに赤石安右衛門、菊地寛司らの尽力で、荒廃した田畑のうち1000町歩が復興した。
くわえて、倹約令・出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校開設と教育普及、藩法制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなど、着実な改革を行なって財政を再建した。しかし――
寛政3(1791)年、30歳(数え)の若さで急死。改革は後一歩というところで挫折した。これには毒殺説もある。
嗣子がなかったため、跡を養嗣子 寧親が継いだ。

9、寧親(やすちか)、従五位下・出羽守、越中守、従四位下・侍従、右京大夫
黒石藩5代 津軽著高嫡男。6代当主。
文化2(1805)年、蝦夷地の警備における功績により、幕府より高直しが行なわれまずは7万石、後に10万石の大名となった。
文化5(1808)年、四品に叙任。
文化6(1809)年、黒石藩立藩。

10、信順(のぶゆき)、従四位下・出羽守・侍従
次男。
父 寧親は信明と違って有能ではなく、引き継いだ改革もうまく進まなかった。そのような藩主の息子 信順は後世に「夜鷹殿様」と渾名される暗君だった。
この暗君親子には幕政への参与という野望があったという。そのため、寧親は世子である信順の正室に特に身分の高い娘を選ぶことで、強力な門閥関係を作ろうとした。
文化8(1811)年、内大臣 近衛基前の娘と婚約。しかし、2年後に夭折。
次に、徳川斉匡(11代家斉弟)の6女 鋭姫と婚約。将軍家一門衆となる。しかし、鋭姫は信順が叙任された文政3(1820)年12月当日に夭折する。
文政4(1821)年4月、斉匡9女 欽姫と婚約。文政5(1822)年12月、結婚に至った。
この3度の結婚騒動において公家や幕閣にばら撒いた金銀は数十万両という膨大な額におよび、信明時代に再建された財政はあっさりと破綻した。
文政4(1821)年4月23日、相馬大作事件(下記)。この事件後、寧親は襲撃を避けようと幕府に無断で参勤交代の道筋を変えたことを咎められた。
文政8(1825)年4月、失意のうちに家督を譲り、隠居。
信順は父親以上に暗愚だった。
参勤交代の途上、宿泊先に女を集め酒に入り浸った。
昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返したため、参勤交代の行進は遅れる一方。参勤交代は決められた期日に江戸に到着しないといけない決まりだった。このため、家老 高倉盛隆は参勤遅れでお家が改易されることを恐れ、信順に対して諫死した。それでも、「遊興は余の病である」と言い遊び呆けた。
天保5(1834)年、本来なら必要の無い大名行列で領内を巡察。さらに花火見物、ねぶた見物、月見見物と、藩財政を自分の快楽で濫費。
正室に将軍家と繋がりのある欽姫を迎えておきながら、江戸日本橋の油屋から娘を連れ込んで側室にするなど、乱行を繰り返した。
こうして、弘前藩の借金は70万両近くにまで膨れ上がったと言う。このような失政と乱行に家臣団は絶望したという。
名君 信明の財政再建は――
天保10(1839)年、ようやく動いた幕府により、強制隠居。家督は養嗣子 順承が継いだ。
津軽家の血筋は終わる。


11、順承(ゆきつぐ)、従五位下・左近将監、従四位下・大隈守
三河国吉田藩 松平信明5男。
最初、黒石藩初代 親足の養子で、2代藩主。
佐藤一斎に師事した英才藩主で、天保の大飢饉や信順時代の浪費で破綻していた藩財政再建を目指した。名君 信明に倣って、5か条の倹約令や30か条の経費節減、新田開発や荒地の復興、貯蓄制度による凶作対策や洋式軍備による軍備増強、大砲鋳造や海防警備の強化、医学館や蘭学堂の設置による学問の奨励など、様々な藩政改革に努めて藩政を再建した。
12、承昭(つぐあきら)、従五位下・土佐守、越中守、従四位下、左近衛権少将・侍従、伯爵、贈 従一位
熊本藩細川斉護4男。
戊辰戦争では、官軍→ 5月に奥羽悦列藩 →箱館戦争で官軍に。

※連続お家騒動――
あまりにもくだらないので仔細は省く。
1、津軽騒動。慶長12(1607)年、初代為信の死後、為信3男信枚と嫡男信建の遺児 熊千代が藩主相続を争った。

2、高坂蔵人の乱。慶長17(1612)年、2代信枚と、津軽騒動で信枚側につき活躍した重臣 高坂蔵人が、ひとりの児小姓を奪い合った。この内乱と処刑と逃亡で、家臣が半分にまで減ったという。

3、船橋騒動。寛永8(1631)年〜寛永13(1636)年、3代信義の乳母が元 宇喜多秀家の家臣 船橋半左衛門の妻で、信義の藩主就任(13歳)とともに権力を握る。藩では、もとより古参と新参が不仲で対立しており、これを契機に表沙汰になる。幕府介入により喧嘩両成敗。藩主はおとがめなし。

4、正保の騒動。正保4(1647)年、3代信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟 信英(分家旗本)を藩主にしようとする主君押込の企てがあった。

5、津軽信章越境事件。元禄2 (1689)年、 4代信政の異母弟 津軽信章(津軽兵庫)が、一族を引き連れて久保田藩へ無断で越境(亡命ないしは逐電)を試みた。

6、盛岡藩南部家との確執。戦国時代から引き続き。津軽家(大浦家)が取得した領地は、もとはすべて南部家の領地だった。江戸時代、参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれ、江戸在府期間は原則両家が重ならないよう配慮され(同席なし)、後期には南部家家臣による津軽家当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)が起きている。

※相馬大作事件――
文政4年4月23日(1821年5月24日)、南部藩士 下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん、諱は将真(まさざね))が中心となり、参勤交代の帰路にある津軽藩主 寧親を襲おうとした暗殺未遂事件。
相馬大作はこの時に用いた偽名。仲間の裏切りで密告され、暗殺は失敗。秀之進は南部藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑に処された。

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。