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11.03.24.蔵前橋 西詰北側(台東区蔵前)

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写真: 11.03.24.蔵前橋 西詰北側(台東区蔵前)

写真: 11.03.24.浅草御蔵跡(台東区蔵前) 写真: 蔵前橋 西詰北側(台東区蔵前)

mixiアルバム「御米蔵/台東区蔵前」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000051260297&owner_id=32815602
2012年02月22日 20:13
蔵前という地名は、当地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。
この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6(1620)年に鳥越神社にあった丘を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。
総敷地面積は36646坪(ただし“御府内備考”では27900坪)としている。東を隅田川、他の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちの扶持米、すなわち給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行はじめ、大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
御米蔵の西側にある町が、江戸時代中期以降に蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べた。札差は、武士に代わって御米蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。
札差がこの地域に住むようになったのは、寛文の頃にさかのぼる。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米を小売の米屋に手数料を付けて売るほか、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得て、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊していた( ̄皿 ̄)
明治元(1868)年、浅草御蔵と蔵奉行以下の役宅地は明治政府の管理下となって政府御蔵と称されたが、関東大震災によって焼失。
昭和9(1934)年、御蔵前片町、福富町、新旅籠町など周辺9つの町を整理統合して蔵前1〜3丁目となり、蔵前が正式な町名として使われるようになった。
昭和39(1964)年、浅草桂町と統合し、現在の蔵前一〜四丁目となる。
跡地の南側に、蔵前国技館があった。
※参考「墨田区横網 (御竹蔵 ・國技館 ・旧安田庭園)(11.03.24.)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050694215&owner_id=32815602

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