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15.05.04.宗対馬守屋敷跡 南東角(台東区台東)

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写真: 15.05.04.宗対馬守屋敷跡 南東角(台東区台東)

写真: 15.05.04.宗対馬守屋敷跡・藤堂佐渡守屋敷(台東区台東) 写真: 柳橋(台東区柳橋)北へ

http://photozou.jp/photo/show/650854/265338226 こっち先にアップ。


右、清洲橋通北方向。


https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2152973669&owner_id=32815602
(2012年10月30日 21:52 「浅草橋/柳橋」より記事移動。)
●宗対馬守――
対馬。対州。現在長崎県対馬市。7世紀以前は津島とも書かれていた。対馬という表記に統一された頃は対馬島ともしばらく書かれていたが、すぐに対馬国と統一される。
対馬国は三国志・魏志倭人伝から登場する、わりとメジャーな国。
宗家は室町時代からずっと国司を務めている。

宗氏初代、宗重尚(そう しげひさ)は鎌倉時代の対馬国国主。父は定かではないが、宗知宗(平知宗)または惟宗信国(これむねののぶくに)とする。この両名の存在はあやしいもので、くわえて現在は重尚当人の存在も疑問視されている。
“平知宗”は、平清盛の孫。清盛4男 知盛の3男。都落ち〜転戦の最中に生まれたとされており、壇の浦合戦後、惟宗氏に養われたとし、桓武平氏であると称しているが、惟宗氏の出身だと考えられている。
文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2度の元寇の襲来では応戦したが多数の武士、国民が戦死している。宗氏2代 助国も討死している。一時元軍に占領もされた。この時、男性は虐殺、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと史書には記されている。

戦国時代。幾度も九州本土進出を図ったが、毛利・島津・大友・龍造寺に阻まれ進出は叶わなかった。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。
文禄・慶長の役。宗義智は小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って戦い、活躍した。また、戦闘だけでなく行長と共に外交官として折衝にも当たっている。
関ヶ原の戦い。西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮とのコネを重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められる。
江戸時代。対馬府中藩の藩主となり、参勤交代で3年に一度江戸に出仕した。

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