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上原城(茅野市)

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写真: 上原城(茅野市)

写真: 上原城(茅野市)物見岩 写真: 上原城(茅野市)金比羅神社

mixiアルバム「上原城(茅野市)」 https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000088070251&owner_id=32815602

2013年12月15日 13:21
うえはら。
金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹(板垣平)の居館からなる諏訪総領家の本拠だった根小屋式山城。
長野県茅野市ちの上原。
桑原城は支城。
築城年は不明。文正元(1466)年頃、15代諏訪信満が中腹に居館を建て、5代70余年(15代信満―政満―頼満―頼隆―19代頼重)にわたり諏訪地方を統治したと思われ、“守矢頼実書留”によると上原町には堀廻りが存在しており、信濃国衆の小規模城下町である「宿城(町宿)」だったと考えられている。
天文11(1542)年、武田晴信に領国化されると、板垣信方のち諸角虎登(信方実弟)が諏訪郡代として置かれた。
その後、度重なる城普請が行われる。
天正10(1582)年、甲州征伐により廃城となった。

古代より中世まで、というか現代まで――この地は諏訪湖東の入口で(この南側を線路と国道(甲州街道)と高速が通る)あり、南西側対面の山麓にある諏訪大社上社と武居城はこの入口・街道を守るために造られたと考察できる。



板垣平の比高は30m。
上原城の比高はここからさらに60m。



主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などの遺構が残る。
たいへん小規模な城郭で、他所じゃ物見砦程度のものではなかろうか。家の中心部は下の居館だったのでは?

しかし、まったくもって堅固な城ではない。本当に本拠地としていたのか。居館にはそれなりの人数が詰められるが……。実際、頼重はここを捨てて桑原城に移っている。だがその桑原城もここと対して変わらない、とても堅城とは言えないレベル。それでも桑原城の方を選んだのは?
俯瞰図面を頂戴している余湖氏の記事には、武田氏の所領になってから今見る遺構の城郭が作られたのではないかと考察されている。ここを拠点として利用できるよう、普請を繰り返していたのではないかと。
武田氏による改築が行われた結果の遺構にしても、やはり大所帯の居住、籠城には内外とも不向き(というかムリ)で、桑原城はここよりさらに小さいのだ。諏訪頼重の最期はわずか20名だったが。
※夜間、桑原城内外を検分している所を城兵が見、「殿が夜陰にまぎれて脱出しようとしている」と誤認してことごとく逃げ出してしまった。
※桑原城へ移る際、上原城は焼き払っていったという史料も。


信濃国巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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