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12.04.04.法明寺(豊島区南池袋)小幡景憲墓

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写真: 12.04.04.法明寺(豊島区南池袋)小幡景憲墓

写真: 12.04.04.威光稲荷尊天(南池袋) 写真: 12.04.04.法明寺(豊島区)小幡家墓所

mixiアルバム「法明寺/小幡景憲 ・小幡氏」記事抜粋……

甲斐小幡氏――
甲斐武田氏に仕えた一族。家紋は「五枚根笹」。
遠江国人 勝間田氏の出身。先祖の系譜不詳。平良文流説がある。上野小幡氏と同族とする系図もある。
遠江国勝間田にあったころ、今川義忠によって討伐され一族が離散。盛次のとき甲斐へ入り、武田信虎に仕えた。このとき「小畠」姓とする。
※今川家には小幡光重の一族、小畠久重がいた。

盛次の子 小畠虎盛は、戦功から信虎の「虎」の一字の偏諱を受け、虎盛と名乗った。「鬼虎」と称される勇将で、武田五名臣のひとり。臨終の際、「よくみのほどをしれ」と遺言を残している。
※原美濃守・小幡山城守・横田備中守・多田淡路守・山本勘助――勇猛果敢・武略・用兵に特に優れていたとされる。全員甲斐国人ではなく、他国から招聘されたり、浪人から仕官したりした者である。信虎・信玄初期に侍大将とされる部将の多くは、国人領主で独立性が高く、足軽大将とされる者の多くは武田家の直臣的性格が強い。
(勘助のみ信玄の登用。“軍師”とは、あくまでも俗説。4名が前線指揮官・武将として抜きん出て評価されているが、勘助は用兵・築城技術者としての特異能力を評価されている。)

虎盛の子 昌盛は、海津城に在番し春日虎綱を補佐、上杉戦・北条戦で活躍、西上野で内藤昌豊の配下として総横目を務めている。
信玄の「鬼の子には鬼の娘が相応しい」との計らいで、鬼美濃 原虎胤足軽大将の娘を正室とした。
虎盛死後、海津城副将の地位に推された時、昌盛は信玄の旗本におさまることを望んだという。これに信玄の怒りを買い、甲府妙音寺に蟄居となり切腹を命じられるが、諏訪勝頼、土屋昌続の懇願により赦免され、足軽大将に留まったとされる。
天正10(1582)年、甲州征伐の折は病床にあり参戦できなかった。壊滅状態にある中、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で面会し、暇乞いをし、そののちに息を引き取ったとされる。
※小畠姓を「小幡」に改めたのは昌盛。信玄の命との説。

武田氏滅亡後――
昌盛長男 昌忠は、徳川家旗本となったが2代で断絶。
次男 在直は井伊直政――井伊家に仕えた。
三男 景憲は昌忠と同じく旗本となった。
海津城を継承した虎盛の弟 虎昌は上杉景勝――上杉家に仕えた。子孫は三河守系と共に米沢藩士として続いた。


●小幡景憲――
元亀3(1572)年〜寛文3(1663)年。
幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。
甲斐武田氏遺臣。
江戸時代に成立した軍学書“甲陽軍鑑”は、海津城主 春日虎綱の甥にあたる春日惣次郎が書き残した口述を、小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。

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