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12.04.04.法明寺(豊島区)本堂

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写真: 12.04.04.法明寺(豊島区)本堂

写真: 12.04.04.法明寺(豊島区)本堂 写真: 12.04.04.法明寺(豊島区)山門

mixiアルバム「法明寺/小幡景憲 ・小幡氏」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000055625801&owner_id=32815602

2012年04月04日 23:59
12.04.04.
●威光山法明寺――
弘仁元(810)年、慈覚大師円仁により開山。真言宗威光寺と称した。

本尊、三宝尊。
(さんぼうそん、さんぽうそん。法華宗・日蓮宗の本尊。仏・法・僧の三宝を祀るための仏像を三宝尊と言う。様々な形式があるが、大寺院以外は日蓮像を除く場合がある。また、庶民にとって高価な仏像を祀ることは困難であり、日蓮は諸尊を書いた十界曼荼羅を庶民に与えた。)

正和元(1312)年、日源が日蓮宗に改宗、寺号も威光山法明寺と改める。

現在、本家よりも有名になってしまったが、飛地境内の鬼子母神堂は法明寺の堂宇。
威光稲荷尊天は威光山法明寺の堂宇のひとつ。

参道は江戸時代からの桜の名所で、境内には1645年造の銘がある梵鐘が残されていた。


●甲斐小幡氏――
甲斐武田氏に仕えた一族。家紋は「五枚根笹」。
遠江国人 勝間田氏の出身。先祖の系譜不詳。平良文流説がある。上野小幡氏と同族とする系図もある。
遠江国勝間田にあったころ、今川義忠によって討伐され一族が離散。盛次のとき甲斐へ入り、武田信虎に仕えた。このとき「小畠」姓とする。
※今川家には小幡光重の一族、小畠久重がいた。

盛次の子 小畠虎盛は、戦功から信虎の「虎」の一字の偏諱を受け、虎盛と名乗った。「鬼虎」と称される勇将で、武田五名臣のひとり。臨終の際、「よくみのほどをしれ」と遺言を残している。
※原美濃守・小幡山城守・横田備中守・多田淡路守・山本勘助――勇猛果敢・武略・用兵に特に優れていたとされる。全員甲斐国人ではなく、他国から招聘されたり、浪人から仕官したりした者である。信虎・信玄初期に侍大将とされる部将の多くは、国人領主で独立性が高く、足軽大将とされる者の多くは武田家の直臣的性格が強い。
(勘助のみ信玄の登用。“軍師”とは、あくまでも俗説。4名が前線指揮官・武将として抜きん出て評価されているが、勘助は用兵・築城技術者としての特異能力を評価されている。)

虎盛の子 昌盛は、海津城に在番し春日虎綱を補佐、上杉戦・北条戦で活躍、西上野で内藤昌豊の配下として総横目を務めている。
信玄の「鬼の子には鬼の娘が相応しい」との計らいで、鬼美濃 原虎胤足軽大将の娘を正室とした。
虎盛死後、海津城副将の地位に推された時、昌盛は信玄の旗本におさまることを望んだという。これに信玄の怒りを買い、甲府妙音寺に蟄居となり切腹を命じられるが、諏訪勝頼、土屋昌続の懇願により赦免され、足軽大将に留まったとされる。
天正10(1582)年、甲州征伐の折は病床にあり参戦できなかった。壊滅状態にある中、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で面会し、暇乞いをし、そののちに息を引き取ったとされる。
※小畠姓を「小幡」に改めたのは昌盛。信玄の命との説。

武田氏滅亡後――
昌盛長男 昌忠は、徳川家旗本となったが2代で断絶。
次男 在直は井伊直政――井伊家に仕えた。
三男 景憲は昌忠と同じく旗本となった。
海津城を継承した虎盛の弟 虎昌は上杉景勝――上杉家に仕えた。子孫は三河守系と共に米沢藩士として続いた。


●小幡景憲――
元亀3(1572)年〜寛文3(1663)年。
幼名は熊千代、別名を孫七郎、勘兵衛。法名は道牛。
甲斐武田氏遺臣。
江戸時代に成立した軍学書“甲陽軍鑑”は、海津城主 春日虎綱の甥にあたる春日惣次郎が書き残した口述を、小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。


※上野小幡氏
家紋は「軍配に七五三笹」。
この系統は早くにふたつに分かれたとみられ、右衛門尉(宗家)と三河守をそれぞれ名乗っている。もとは秩父氏より分家した。諸氏多数分家したが、同氏結合が非常に強かったと思われる。戦国期には両家は独自に行動しており、宗家・分家としてのまとまりは無い。
鎌倉御家人ではなかった。南北朝から活動が見られ、足利家に従属。室町期には上野守護 上杉憲政――山内上杉家家臣になっていたとみられる。後北条氏に攻められ上野を失った(諸説)あと、三河守系は憲政に従い越後へ。その後、三河守は長尾景虎の上杉氏継承に参列するなど上杉方であったが、三河守信尚はのちに武田氏に属する。
一方、右衛門尉系 小幡憲重は後北条氏へ。その後北条氏に抵抗を続ける長野業正は、小幡一族の小幡景純(あるいは憲重の弟 景定説)とその養子 次郎信之(憲重末弟)を後押しし、反乱を起こさせ憲重の持ち城 国峰城を占拠させ、小幡領を上杉方の勢力下にした。このため、憲重と嫡男 上総介信貞(信実)は信玄を頼り甲斐へ亡命した。

上野小幡氏は、信玄が長野家を滅ぼしたのち武田家臣として西上野衆を率いる立場となり、小幡の赤備え軍団として三増峠の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなどに参戦、騎馬隊は主力として活躍した。
(赤備え五百騎は伝統。西上野は馬産地。)
武田氏滅亡後――
信貞は織田信長配下の森長可に降状。本能寺の変後は後北条氏に属す。北条氏滅亡後は旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、52歳で病死。
宗家である信貞に実子は無く、一族から養子をとっていた。家督は直之(信貞弟 信秀の子)が継承し、徳川家旗本となり、代々続いていく。
信貞養子・直之実弟 有宗・氏吉兄弟は、有宗は真田信之に仕えて松代藩の重臣となり、氏吉は紀伊国和歌山藩に仕官した。松代小幡氏(有宗系小幡氏)は幕末まで存続し明治期に東京へ転出。しかし、紀州小幡氏(氏吉系小幡氏)は幕末には藩記録に見えず消息不明となっている。


※「鎌倉七福神/源頼朝・大江・毛利・島津・荘園・土佐坊昌俊/八雲神社」
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000000913737&owner_id=32815602


●15.03.30.花見――

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