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13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

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写真: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

写真: 13.10.22.目黒川・目黒谷(品川区西五反田) 写真: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

●柳生十兵衛――
柳生三厳(みつよし)。江戸時代前期の武士、剣豪、旗本(柳生藩2代藩主として数えられる場合もある)。
初名は七郎、通称は十兵衞。
江戸時代初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。だが、現在知られる創作のすべてにおいて、描かれる十兵衛に史実に準える部分はまったくないと言っていい。

※隻眼ではなかった。勘当されていない。廃嫡されていない。宗矩とは不仲ではない。同時代の数多くの剣豪たちとはまったく戦っていない。
だが創作の発端となった真偽不明の逸話、伝説は多く存在している。その部分は、世間に知られる創作の劇中に登場している。
よって「柳生最強」も疑わしい…。

慶長12(1607)年生まれ。宗矩長男。
次弟は友矩(刑部・左門)。三弟は宗冬(飛騨守)。末弟は列堂義仙。

※柳生家累代の記録「玉栄拾遺」に、「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」と記されている。この家伝には、山賊退治、盗賊退治、諸国道場巡りが記されている。

元和5(1619)年頃より家光の小姓として仕える。宗矩が家光に剣術を教える時は稽古に相伴して「寵隅甚だ厚かった」とある。
寛永3(1626)年、20歳の時に家光の勘気を被り、小田原の阿部正次に一時お預けの身となる。

※勘気の理由は不明。
※その後の動向について、三厳本人著書には「素性の国(柳生庄)に引き籠り、12年間は故郷を出ず、日々家道の兵法の事を考え続け」て過ごしていたとある。

寛永14(1637)年、勘気を受けて以来11年ぶりに江戸に戻り、宗矩の元で学びながらその極意を伝書(「昔飛衛という者あり」)としてまとめて印可を得る。
寛永15(1638)年、家光に重用されていた次弟 友矩が病により役目を辞すのに前後し、再び家光に出仕。書院番。
正保3(1646)年、父 宗矩が死去。(前述)三厳は8300石を相続して家督継承。

※「昔飛衛といふ者あり」に、
「我祖父古但馬守宗厳従上泉武蔵守秀綱此道を相伝してより、其身一代深く修行して、心に得て是を手にする事、おそらくは、氷は水より成て、水よりもすさましき物歟。老父其伝を継て、若年より此道に心をつくし、太刀のみならす鑓長刀の類にいたるまて、 兵道とさへいへは不聞といふ事なし。一代其身に得てつかふまつる事、又おそらくは藍より出て藍よりも青き物歟」
と、出藍の誉れを記している。
「祖父石舟斎は、流祖 信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父 宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる。」
※ちなみに、この著書には題目がないため、冒頭の「昔飛衛といふ者あり」を題目として用いられている。

宗矩生前の三厳は、強勇絶倫でみな恐れて従う風だったが、家督継承後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという。
慶安3(1650)年、鷹狩りへ出かけた先の弓淵で急死(44)。奈良奉行 中坊長兵衛が検死を行い、村人達も尋問を受けたが死因は明らかにならず、柳生の中宮寺へ埋葬された。

◎大の酒好きだったため脳卒中とする説、また本人著作「武蔵野」に現代でいうところの狭心症の症状が記されていることから心発作とする説がある。

墓所は練馬区桜台の広徳寺および奈良市柳生町の芳徳寺。
大和の豪族 秋篠和泉守娘との間に2女があり、三厳の死後 宗冬によって育てられた。

宗矩の死後石高が1万石を切ったために三厳が大名に列した事はないが、三厳の遺領を相続した宗冬が再度大名としての地位を回復させたことで、便宜上三厳が大和国柳生藩2代藩主とされている。

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