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10.11.02.山内豊信(容堂)墓(品川区営 大井公園)

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写真: 10.11.02.山内豊信(容堂)墓(品川区営 大井公園)

写真: 10.11.02.侯爵山内豊範妻栄子之墓(品川区営 大井公園) 写真: 10.11.02.嶋津常候之墓(品川区営 大井公園)

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山内容堂(豊信)。豊信は諱。容堂は隠居後の号。外様大名、土佐藩15代藩主。官位は、従四位下・土佐守、侍従、のちに従二位・権中納言。
明治時代には麝香間祗候に列し、生前は正二位まで、薨去後は従一位を贈位された。
土佐藩連枝の山内南家当主、山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘正子(三条実万の養女)。
子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。
幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。
※僅か26歳にして門閥・旧臣による政治体制を憂い、吉田東洋を見出して「参政職」に置き、家老らの反発をさえぎって、西洋軍備採用、海防強化、財政改革、藩士の長崎遊学、身分制度改革、文武官設立による学問奨励などの藩政改革を断行した政治力は並外れたものだった。しかしながら、自らを「鯨海酔候」と称すなど世捨て人のようなところがあって、酒を欠かさず飲んで情が入っての意見の変化が多い。
武芸に秀でて、軍学は北条流、弓術は吉田流、馬術は大坪流、槍術は以心流、剣術は無外流、居合術は14歳で長谷川流を学び18歳で目録を得た。
豊信の居合の腕前は凄まじく、乾退助に「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだが、あまりの烈しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(史談会速記録)といわしめている。
漢詩を箕浦万次郎・文章は松岡毅軒に学んだ。
豊信は自分を戒める為に「忍堂」という額を部屋に飾っていたが、勉強熱心で維新派の面々などと交流することが多く、ある時、水戸派の代表的な学者の藤田東湖がこの額をみて、「指導者は、ただ忍ぶだけではいけません。多くの衆の意見を容れることが大切でしょう。それこそ人君の徳と申せましょう」という言葉に、深く同意し、「容堂」と改めた。
山内豊範が毛利敬親の養女と結婚していたために長州藩関係者とは行き来があった。このために周布政之助から暴言を吐かれたこともあった。
豊信自身の隠居部屋の欄間に「酔擁美人楼」という額偏を掲げていたが、大名間ではかなり評判で、毛利敬親に関する記録「涙余集」や松平慶永の「逸事史補」でこの額偏に触れている。ちなみに毛利敬親はこの額偏を見た話をした近侍に対して「24万石の大名なのだから美酒でも佳人でも好きなだけ得られるではないか。そういう身分にありながら、あえてこの額偏を掲げているのは自ら豪傑をよそおうものだ」と微笑して言ったという(萩市史・第一巻)。
英国外交官ミットフォードは、「容堂公は五十年ばかり前の英国の政治家に似て、放縦な道楽者であった」と回顧録に記している。「五十年ばかり前」とは、土佐藩が会津藩から接収した京都の土佐藩邸で容堂に面会した1868年3月8日(慶應4年2月15日)から50年前だろう。
2010年11月23日 19:50


「鯨海酔候」……酒豪で有名だったが、死因は脳卒中だという…。酒のせいか…?(≧〜≦)=3
2010年11月18日 19:18

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