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mixiアルバム「教学院 目青不動堂/大久保氏」コピペ――
2013年06月12日 17:39

●三河大久保氏――
坂東の豪族・宇都宮氏庶流・武茂氏分流。(下野宇都宮氏は藤原北家道兼流の名家。)
南北朝争乱期、武茂時綱の子 武茂泰藤が三河国へ移住したのが始まりで、その子孫が松平氏に仕えたとされているが、真相は不明。はじめは宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂または大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。
安祥譜代七家のひとつ。
家康配下として活躍したのは大窪(宇津)忠茂の孫・忠員の子ら、大久保忠世・忠佐・忠教兄弟。


●大久保加賀守――
大久保家・大久保小田原家・小田原藩大久保家、大久保家宗家・嫡流

0、忠世
忠員(ただかず)嫡男。忠員は忠茂4男。
(書かれていないが、おそらく忠俊は庶子、次兄。長兄は忠平。)
徳川十六神将。
松平清康以来の重臣。
小田原入りは秀吉命。4万5000石。

1、忠隣(ただちか)、従五位下・治部少輔、相模守
忠世嫡男。
慶長19(1614)年、改易。
※大久保長安事件 →http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1888825360&owner_id=32815602
・(新知)武蔵国羽生藩2万石 →相模国小田原藩6万5000石

×、忠常、従五位下・加賀守
忠隣嫡男。
幼少時から智勇に優れ、家康・秀忠父子から気に入られていた。
慶長16(1611)年、父に先立って32歳の若さで死去。病死とされているが、権力闘争中の本多佐渡守正信に暗殺されたという疑いもある。またこの件により、忠隣は引きこもりになる。
・(新知)武蔵国騎西藩2万石

2、忠職(ただもと)、従五位下・加賀守、従四位下
忠常嫡男。
騎西藩大久保家の家督を相続するが、幼少のため(8歳)祖父 忠隣が政務を行った。
慶長18(1613)年、大久保長安事件。この翌年、祖父は改易・流罪。親類も多くが処罰の対象となった。忠職は外祖母が亀姫(家康長女・奥平信昌室)であること、大久保家代々の大功を考慮され、城内での蟄居処分のみとされ、家の存続を許された。
寛永2(1625)年、本多正純失脚から3年、ようやく赦免となった。
→(1632年)美濃国加納藩5万石 →(1639年)播磨国明石藩7万石 →(1649年)肥前国唐津藩8万3000石

3、忠朝、従五位下・出羽守、加賀守、従四位下、侍従、木工頭(もくのかみ)
教隆次男。教隆は忠隣3男。旗本家。忠職実子3人はいずれも早逝。
「良将」と謳われている。
延宝6(1678)年、4代家綱より芝金杉の地を拝領。貞享3(1686)年、屋敷内庭園 楽寿園として作庭された。これが現在の浜離宮庭園の原型。
貞享元(1684)年8月24日、江戸城内にて大老 堀田正俊殺害事件に遭遇。現行犯 稲葉正休をその場で斬殺。
貞享3(1686)年、曾祖父が領した小田原へ復す。10万3000石。72年も経っている。
元禄10(1697)年、紀州徳川2代 紀伊光貞が子らを連れ江戸城登城。長兄 綱教と3男頼職が5代綱吉に拝謁。4男頼方(よりまさ)は次の間に控えさせられていたが、忠朝の計らいで御目見えとなった。のちの8代吉宗である。
→下総国佐倉藩(9万3000石) →相模国小田原藩11万3000石

4、忠増、従五位下・安芸守、隠岐守、従四位下、侍従、加賀守
5、忠方(ただまさ)、従五位下・大蔵少輔、加賀守、従四位下
6、忠興、従五位下・出羽守、従四位下、大蔵大輔、大炊頭
7、忠由、従五位下・大蔵少輔、安芸守、大蔵少輔、加賀守
8、忠顕、従五位下・加賀守、上野介
9、忠真、従五位下・出羽守、安芸守、従四位下・侍従、加賀守
10、忠愨(ただなお)、従五位下・加賀守、従四位下
11、忠礼(ただのり)、従五位下・加賀守、従四位下、子爵
林忠崇、伊庭八郎らに協力して新政府に反逆したため、責任を問われ強制隠居。
12、忠良、従五位下・加賀守
明治8(1875)年7月、病気を理由に大久保家の家督を忠礼に返している。
→7万5000石


忠員6男 忠為の4男 忠舊(ただふる)は、紀州藩士となった。その孫娘 深徳院は9代徳川家重の生母となる。そのため、深徳院の弟たちはみな幕臣に召し出されている。

幕末・明治期の政治家 大久保一翁(忠寛)は、大久保忠俊の庶子で、嫡子忠勝とは別家の旗本を起こした 忠安の末裔。

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  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    ●大久保佐渡守――
    大久保烏山家・烏山藩大久保家、忠為系大久保家・小田原藩大久保家分家

    0、忠高、従五位下・山城守、佐渡守、伊豆守
    忠知嫡男。 忠知は忠為3男。 忠為は忠員6男。
    ・旗本1500石 →小姓組番頭1000俵加増 → 留守居2000俵加増 →2000石加増 →5代綱吉側衆2000石加増 →貞享3(1686)年1500石加増・都合1万石
    1、常春、従五位下・山城守、佐渡守、従四位下
    忠高次男。
    元禄12(1699)年、父隠居。家督相続。
    正徳元(1711)年、側衆。
    正徳3(1713)年、若年寄。
    享保3(1718)年、5000石加増。
    享保10(1725)年、下野国烏山藩2万石転封。
    享保13(1728)年、老中。1万石加増。
    → 下野国烏山藩

    2、忠胤、従五位下・伊豆守、山城守
    3、忠卿(ただあき)、従五位下・佐渡守、伊豆守
    4、忠喜、従五位下・伊豆守、山城守
    5、忠成(ただしげ)、従五位下・佐渡守
    6、忠保、従五位下・近江守、佐渡守
    7、忠美、従五位下・佐渡守
    8、忠順、従五位下・佐渡守

    2019年5月3日 02:31 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

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