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伝 明智光秀供養塔(茅野市)

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写真: 伝 明智光秀供養塔(茅野市)

写真: 伝 明智光秀供養塔(茅野市) 写真: 白樺湖(長野県)

mixiよりコピペ――
黄昏の番犬 2017年01月27日 13:16
17.01.23.ツイート。
7ヶ月ぶりになりますか。明智ツイート、いっきまーすブンブンブブブン ……ε( o・ω・)o

※ずいぶん前に読んだ「本能寺の変 431年目の真実」。ここからピックアップしていたメモ書き。の羅列です。前回からの続き? になりますよー。

本願寺攻め、雑賀攻め、丹波平定……光秀は信長の天下布武の中心にいた。

光秀と信長が不仲だった、怨恨説がまことしやかに流れているが、太田牛一の信長公記にそんな記述は一切ない。どれだけ光秀を高く評価していたか、場面ごとに必ず記されている。

天王寺城での光秀救出には、信長自らの奮戦ぶりがあった。

惟任退治記は秀吉が書かせたものだが、光秀の毛利攻め援軍についてココには、信長は光秀を軍師として派遣するので(秀吉と)相談して軍略を練って報告せよと指示している。

信長自らが出陣するかどうかはその軍略次第と書いている。つまり光秀は軍監として派遣されており、秀吉は信用されておらず、出陣の妥当性を光秀に確認させようとしたと考察できる。

一般には、秀吉の指揮下に入るよう命ぜられ、それが気に入らず怨んで……とされているが、信長・光秀を疎む秀吉がそう記させていない。

怨恨説を流布させたのはやはり軍記物。最初は甫庵信長記。太閤記より先。
小瀬甫庵。公になる前の信長公記を盗作、様々多く色付けして出版した。甫庵は羽柴秀次付きの儒医のち堀尾吉晴付きで、信長に近しい人物ではまったくない。

太田牛一が信長公記を完成させたのは秀吉死後。秀吉の影響を恐れ隠していた。だが、刊行はされなかった。
秀吉の生前に信長について記され出版された書物は惟任退治記のみ。秀吉が許すはずがない。

信長公記が短い事実関係のみの記述に対して、甫庵信長記は登場人物たちの活躍を描き物語化した。これがベストセラー。(林羅山が序文を記している。)ネタ本が大流行して、光秀のみならず信長の悪人たる人物像やふたりの関係、事件などの誤った常識ができあがった。

信長公早生の評などという恐ろしい章を追加し、儒教思想でもってこれを説明している。平手のジイの諫言を無視したこと、親父の葬儀に礼を失したこと、etcetc

信長の信賞必罰の厳罰ぶり。
光秀のノイローゼ。
発作的に謀反に及んだ、という説の元ネタはこの書物。前日夜まで近臣にさえ秘密にしていたという説も。
秀吉が惟任退治記で誇張した信長の残酷さ、激烈さを、小瀬甫庵がさらに悪化させた。

秀吉の惟任退治記によって、小瀬甫庵の盗作同人によって、信長と光秀は苛めや怨みで殺人に至るような、無策・考えが浅い、油断がある、衝動的といった小物に作り変えられてしまったのでした。



黄昏の番犬 2017年01月27日 13:17
続。
(行間1)
フロイスが見た信長……

極度に戦を好む。訓練に勤しむ。名誉心に富む。正義に於いて厳格。自分に向けられた侮辱に対しては懲罰せずにおかなかったが、幾つかには人情味と慈愛を示した。貪欲ではない。非常に性急。激昂するが平素はそうでもない。

善き理性と明晰な判断力を有す。決断を秘める。戦術に極めて老練。敗戦にも心気広闊で忍耐強い。企画着手にあたっては大胆不敵。
神仏礼拝、占術迷信的習慣を軽蔑。神仏の死後世界は全否定。前置きを嫌う。遅延を嫌う。卑賎の家来とも親しく付き合う。

睡眠時間は短い。酒は飲まず食事は節度あり。人の扱いには率直、自らの見解には尊大。きわめて清潔、自分のあらゆることを丹念に仕上げる。家臣の忠言には従わない。きわめて畏敬を集めた。

信長はイエズス会を庇護した人物ゆえ、好意的な書き方になってはいるだろう。
それにしても。家臣だけでなく自分にも厳しく。何事にも合理的な判断。大胆かつ忍耐強く行動する。たくましい人物。

逆に光秀は、そんな信長を殺した人物なので悪辣に書かれている。

裏切りや密会を好む。刑を科すに残酷。独裁的。己の偽装に抜け目がない。
謀略を得意とする。忍耐力に富み、計略と策謀の達人。築城に優れた。戦に熟練の士を使い熟した。人を欺くための七十二の方法を深く習熟していると吹聴していた。

才略、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた。主君とその恩恵を利することを弁え、寵愛を維持し増大させる不思議な器用さを備え、絶えず信長に贈与することを怠らず、信長はどうしたら喜ぶか万事調査し、その嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らわなかった。

信長は奇妙なばかりに親しく光秀を用いた。
殿中にあって光秀は余所者であり、外来の身であったため、ほとんどの者から疎まれていた。

人を欺くための七十二の方法とは、兵とは詭道なり(戦は欺くことにあり)と説く孫子の兵法と考察されている。

フロイスの悪意を取り除き思考すると、
優れた軍事戦略家で、信長にその才覚を買われて重用され、信長に対して細かな気遣いがなされている。優れた参謀、腹心の家臣としか見受けられない。周囲が思うままに、親密な関係だったのだ。

新参者が驚異的なスピードで出世して主君の寵愛を受け、城持ち大名となる家臣第一号。家臣団からはさぞや妬まれたことだろう。

天正9(1581)年6月2日、明智光秀家中軍法を制定。この軍法は丹波福知山にある御霊神社(祭神は光秀)に伝わっており、丹波での善政施行から領民に慕われていたために祀られ、伝わったのだという。

光秀は頭脳明晰で、その実績からキッチリ成果を出す人物と思われる。ゆえに、合理的成果主義者である信長と気があったのではないか。

一般には、保守的・情緒的と認識されており、これは革新的・合理的な巨人信長を討ったのだから光秀はこれに対をなす思考の持ち主だったのだろうという推測。それゆえに保守勢力の復活を図り謀反を起こしたと…。

信長に取り立てられ信頼されたという“事実”からすれば、光秀は信長に追従できる思考の持ち主だったと考えられるではないか。

明智光秀家中軍法の最後に、「武勇無功の族は国家の費えである。だから粉骨砕身に忠節を勤めよ」とある。尽忠報国の志も見えるが、これには信長と共通する思考も見て取れる。

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