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塩田城(上田市)

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写真: 塩田城(上田市)

写真: 塩田城(上田市) 写真: 塩田城(上田市)

mixi記事コピペ――2015年03月23日 10:00

15.03.17.
築城年、建治3(1277)年
築城主、北条義政
城主、塩田北条氏、村上氏、武田氏
廃城年、天正11(1583)年?

鎌倉幕府連署 北條義政が37歳の若さでとつぜん出家・隠居し、この地を隠居領に選んで移ってきた。だがこの4年後に病死する。
(執権は時宗。第2次蒙古襲来直前である。)
(連署は執権に次ぐ役職。?2。副執権。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。執権複数制とも称される。)
後醍醐天皇勅の討幕軍が鎌倉に押し寄せたとき、義政の子 国時とその子 俊時は馳せ参じ戦ったが、北条高時(得宗家。14代執権。北条氏惣領家)らとともに東勝寺にて自害。塩田北条氏は3代で滅亡。
(高時の嫡子 邦時9は逃亡中に捕まり処刑された。次男 時行は北条一族の残党に担がれて信濃、武蔵、下野、駿河など各地で蜂起するがことごとく敗れ、正平7(文和元年。1352)年武蔵国で捕えられ、鎌倉で処刑された。前北条氏、得宗家、桓武平氏高望流(現在は否定されている)北条氏は滅亡。)

北条氏滅亡後、この地は新田軍で功績のあった村上信貞に与えられた。以降、武田晴信入道信玄の信濃侵略までは村上氏の領地として、村上氏家臣 福沢氏の所領となる。その居城が塩田城。
鎌倉時代、塩田北条氏3代57年にわたる歴史がある。南北朝、室町、戦国時代までの200年を超える村上氏(城将 福沢氏)の歴史がある(諏訪大社の史料によると、室町期の塩田福沢氏は、信濃における最大土豪のひとつとして記録されている)。


天文21〜22(1552〜1553)年にかけて武田晴信は筑摩地方を攻略。葛尾城を西から攻撃するため、塩田城を落とさんと進軍する。義清も塩田城に入った。しかし、晴信は“当初の計画通り”深志城より苅谷原・会田・麻績・更級と進軍し葛尾城へ。これを落とす。
(天文20(1551)年、真田幸綱の調略により村上軍足軽大将 矢沢薩摩守頼綱(幸綱弟)が内応、戸石城を奪われる。これを機に影響力が急低下していった。
(天文21(1552)年、常田合戦で村上軍は勝利している(?)。
天文22(1553)年、村上氏家臣 大須賀九兵衛謀反。つづけて室賀城 室賀氏、屋代城 屋代氏、塩崎城 塩崎氏、石川氏など諸将が次々と武田氏へ降伏。周辺諸城を落とされ囲われた義清は越後へ逃亡。
4月9日、葛尾城自落。義清は高梨政頼を通じて長尾景虎へ救いを乞う。

同年4月某日、第1次川中島合戦(布施合戦、八幡合戦など)。同22日までに葛尾城、荒砥城、青柳城、麻績城、会田城、虚空蔵山城を奪還。晴信は深志城に後退、5月11日に甲府へ引き上げた。
(この合戦については天文21年9月説あり。)
同年6月1日、晴信出陣。和田城、高鳥屋(たかとや)城、内村城攻略。
8月、塩田城の後背を抑え包囲した。塩田城へ籠っていた義清は抗戦能力を失い、行方をくらました。
同月5日、塩田城自落。村上領16の諸城がすべて陥落。
晴信は小県郡、筑摩郡など、東信・北信地方南部の平定に12年を要し完了した。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing



mixi記事コピペ――

※村上義清――
旧領回復も3ヶ月でふたたび失い、再度越後へ落ち延び、景虎に降ったという説。その後 根知城主となったとされる。
嫡男 国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、長尾上杉家第2位の地位を与えられている。
永禄4(1561)年、第4次川中島合戦に参陣し、義清は武田信繁を討ち取ったとされる(合戦図に描かれている)。
元亀4(1573)年1月1日、越後国根知城にて病死。享年73。武田信玄死没の5ヶ月前。
墓所は、日滝寺に葬られたという説、根小屋地内の安福寺説、魚沼郡赤沢の説。坂城町田町の出浦家墓所には後年に(天正4年、慶長4年、没後百年など諸説)分骨されたという。
※(wiki)自ら先陣を切って敵に突撃するという逸話もあるほど武勇に長けており、家臣の中にも勇将が多かったといわれる。長槍による槍衾戦法を得意とした。当時長槍を活用した人物はほかに斎藤道三がいるだけであるため、義清は槍戦術の創始者のひとりに数えられている。
※室賀城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094900609&owner_id=32815602

天正10(1582)年、武田氏滅亡のち、小県郡一円は真田氏が領有する。
天正11(1583)年、上田城築城。真田昌幸はここを小県郡の政治・経済の中心とすべく町づくりを開始した。
鎌倉時代から続いた塩田城での内政と小県地方の生活文化は機能を失っていく。
(※「信州の鎌倉」という異名は当時あったのか?)
一農村地帯と変わっていくが、仙石氏が上田藩主期には塩田平を”塩田三万石”と称し、藩の穀倉地帯として重んじ、塩田城下町であった東前山に大庄屋をおいてこれを統率させている。


村上氏関連記事──
戸石城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094932290&owner_id=32815602
楽巌寺城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094657414&owner_id=32815602

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