2020_0809_150501 毘盧宝殿
本殿の扁額
大きな伽藍がたくさんある東大寺ですが、方丈・庫裏・法堂・仏堂は明治14年に焼失しています。
この本殿は法堂と仏堂を統合して昭和9年に再建されたものです。
東大寺の大仏さんを毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言います。
略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)という呼ばれ方の方が多いかも知れません。
東福寺にも嘗て大仏さんがありました。火災で今は黒焦げの手だけが残っていてこの本堂に安置されています。
東福寺の大仏さんも毘盧遮那仏だったのでしょうか。そしてこの本殿もそこから名前を頂いて毘盧宝殿とつけられたのでしょうか・・・
アルバム: ◎き)京都・東福寺
タグ: 東福寺
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コメント (5)
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焼け残った大仏さんの台座の蓮弁を見たことがあります。この扁額は大仏さんの名残りなのですね・・・
2020年8月13日 19:12 kame (11)
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kameさん
☆とコメントありがとうございます。
東大寺と興福寺の間に東福寺が隠れてくらいですからそれぞれのお寺にあやかったものもあるでしょうけれども奈良の大仏つぁんの印象があまりに大きくて
ここにも大仏があったと言われてもピンときません。私も特別公開だったかで大仏の痕跡を見せてもらったような気がしますが・・・
焼失は明治14年と近代に入ってからのことだそうなので、なにかもっと記録が残ってそうなものですが調べてもあまり出て来ませんね。その頃は廃仏毀釈でもう仏さんなんかどうでもえぇ、という風潮だったのでしょうか。手だけが奇跡的に運び出された・・・、とさらっと書かれた記述や実際「手」の写真は出てきますが、手だけがそんなに咄嗟に外せるんやろか、とかいくら手だけ、それも木造とはいっても人力で運べるもんやろか、とか謎は深まるばかりです。2020年8月14日 08:06 キューチャン (36)
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戦や天災で焼けてしまう文化財、ほんとに惜しいですね。
記録は詳細なものがほしいです。
方広寺の大仏なども見たかったなあ。2020年8月14日 08:28 みなみたっち (77)
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みなみたっちさん
☆とコメントありがとうございます。
写真のタイトルに「盧」が書きたいだけなのに読みも部首も解らず、
東福寺・扁額・本堂などで探っても三門や三橋の扁額ばかりで新しい本堂の扁額についてはなにも引っかからず、途方に暮れていましたが
「蘆山寺 」の「ろ」がこんな感じの字とちゃう?・・・が突破口になりました。
「蘆」の草冠の下に付く音符として盧が登場してきました。
用例として廬舎那仏、そっかー大仏か、ということで繋がって東福寺・大仏でちらほらと扁額の情報も出てき始めました。
ですが大仏のことについては以前特別公開で聞いた話を越えるような情報は出て来ませんでしたねぇ。薬師如来の大仏であったというような記述もあり、なんか釈然としないままです。
戦に巻き込まれたり、天災に遭ったりはまだ不本意ながら、という部分もあったと思い、復興という動きも無きにしも非ずですが、明治初期の廃仏毀釈運動は文化そのものの否定、破壊みたいなところもあって時代が新しい割に良く解ってないことが多いのではないかと思います。
中国の文化大革命なんか、もっとひどいもんですよね。古いもんはいかん、ということで麻雀すら禁止されたそうですから・・2020年8月14日 15:49 キューチャン (36)
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xkazexさん
☆ありがとうございます。2020年8月25日 19:38 キューチャン (36)
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