2019_0721_141508 千百五十年
貞観11年(869年)に執り行われた御霊会が祇園祭の起源だそうです。
2019-869=1150
江戸時代までは八坂神社は祇園社、祇園祭は祇園御霊会と呼ばれていました。
明治の初めの廃仏毀釈の影響で、仏教色を消すために
仏教由来の祇園が消されて祇園社は八坂神社と改称されました。
祇園御霊会の方は、祇園は残されて祇園祭と改称されました。
天変地異や疫病の流行は非業の死を遂げた人の祟りとする考え方は昔からあり
御霊会は霊の怒りを鎮める行事として始まりました。
貞観年間は災害や疫病の流行が特に多くて熱心に御霊会が行われましたが、3基の神輿が街を巡り
矛の行列が巡行する今の祇園祭の基本スタイルができたのが貞観11年の御霊会だったようです。
アルバム: ◎き)京都・祇園祭 2019
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コメント (6)
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「祇園」は仏教所縁だからNGだったのですね〜 で、八坂神社になったけど八坂祭とはならず・・・
2019年7月27日 12:04 kame (11)
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がんちゃんさん
☆ありがとうございます。2019年7月28日 00:36 キューチャン (36)
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中古のふさん
☆とコメントありがとうございます。
御霊会は最初は神泉苑からスタートしたのですね。
特に二条城の側からだと名前も寺院らしくないし門構えもまるで料亭にしか見えません。入ってえぇんやろか〜、という雰囲気。
平安時代は二条から三条までガッツリ1ブロック分の敷地の大庭園だったみたいですね。2019年7月28日 00:36 キューチャン (36)
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みなみたっちさん
☆ありがとうございます。2019年7月28日 00:37 キューチャン (36)
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kameさん
☆とコメントありがとうございます。
今でさえ冠婚葬祭のうち冠婚は神式優勢、葬祭は仏式優勢とごちゃまぜなのが一般人だと思うのですが、明治政府は民衆にはどういう言い方で廃仏希釈を煽ったのかなぁと関心があります。
恐らく基本ポリシーは分けろと言うだけで片方を壊せではなかったと思うのですが・・。
慣れとは思いますが 広告でかわいい浴衣で「いよいよ夏本番、祇園祭へ」と誘われたらウキウキ出かけそうですが「祇園御霊会へ」と言われても退屈な法事に呼ばれてるか、あるいは納涼心霊スポットの広告か、みたいな感じでウキウキしてきません・・・。
名称見直しは正解だったかも。2019年7月28日 01:52 キューチャン (36)
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御霊会の出発点?の神泉苑には、昔、二条城から南へ新選ゆかりの場所を巡った時によりました。
目的の場所は、新選組ファンのギャル(古ぅー)の嬌声が響いてて、爺さんは近寄りも出来ませんでした(^_^;)
神泉苑は何かせせっこましい所やなー、と思いましたが、昔は大きかった事を後にしりました(^^ゞ
2019年7月27日 10:32 退会ユーザー