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本田親直(弟) 墓碑文 日置市文化財

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写真: 本田親直(弟) 墓碑文 日置市文化財

写真: 西郷吉二郎の墓 鹿児島市

訳を試みました。
間違いもあるかも知れません。参考まで。

---原文---
(正面)
慶應四年戊辰
本田親直之墓
九月五日
(向左)
本田親直通稱太郎作親至之第二子也[01]
継叔父親善之家而尚在親至之室焉為[02]
人勇而有智能堪事事父母婉容愉色未[03]
嘗戻其意慶應三年丁卯十月兄親正奉[04]
  命将赴京師親直告父曰此擧  [05]
皇室興廃 国家存亡之所係與兄共致[06]
身盡力報 国家無窮之恩請許之乎父[07]
未許之親直以謂安可以區々之小事忽[08]
(背面)
略大義乎哉慷慨激昂不類平素温和父[09]
感其志乃許之親直喜躍而為三番隊小[10]
頭倶赴京師慶喜謀叛也連戦四日身毎[11]
先人不少撓屡有戦功矣爾後赴越後或[12]
為小隊長或為小頭毎戦励兵善闘八月[13]
三日攻村松城一呼而進直逼于柵忽遇[14]
賊令隊中之人射而中之親直進而斬之[15]
於是傷于丸人扶而欲退乃勵聲曰顧我[16]
(向右)
何為請速刎一擧破之必矣天授之機不[17]
可失也強扶而退送新發田病院九月五[18]
日遂歿葬于新潟之招魂場年二十二親[19](注1)
直雖被重創神色自若至死不變古人云[20]
忠臣出孝子之門宜哉明治元年戊辰九[21]
月二十九日瘞遺髪於雪窓院招魂焉 [22]
 明治二年己巳八月       [23]
           西郷隆永誌[24]


---試訳---
[01]本田親直は通称太郎作。親至の第二子なり。
[02]叔父親善の家を継ぎてなお、親至の室(部屋)に在り。
[03]人為(ひととなり)は勇で智有り、よく事に堪え、父母に事(つか)う。
婉容愉色(すなおな顔つきでにこにこしている)。
未だかつて其の意を戻さず(意に違えた事がない)。
[04]慶應三年丁卯(1867)十月兄親正はまさに京師(京都)に赴く命令を受く。
[05]親直は父に告げて曰く、この挙(兵)は、皇室興廃・国家存亡に
  係わる所、兄と共に身を致して力を盡(つく)して国家無窮の恩に報ん。
[07]この許しを請う。父未だこれを許さず。親直 どうしてとるにたらぬ小事で
大義を忽略(おろそか)にすべきかと謂う。
[09]平素温和な父に類せず慷慨激昂し、その志に感じすなわち之を許す。
[10]親直喜び躍す。而して三番隊小頭と為り倶に京師(京都)に赴く。
[11]みずからいつも人に先んじ少しも撓まずしばしば戦いの功有り。
[12]その後越後に赴く。或は小隊長、或は小頭となり、毎戦兵を
  励まし善戦す。八月三日村松城を攻む。一声叫び真直ぐに進む。柵逼りたちまち賊の
[15]令隊中の人射るにあう。中の親直は進みこれを斬り、ここで銃で負傷す。
[16]人扶けて退くを欲するも大声で曰く、我を顧みるにどうして受入れられようか。
[17]すみやかに首をはね一挙に之を破り必ずや天授の機を失うべからずなり。
[18]強いて扶け退け、新發田病院に送る。九月五日遂に没
[19]新潟の招魂場に弔う。年二十二。
[20]親直は深い傷を負っても神色自若(どんな事にも驚かず平然としている)、死に至るまで変わらず。
[21]古人は云う、忠臣は孝子の門に出ず。宜なるかな。明治元年戊辰九月二十九日遺髪を埋め
[22]雪窓院にて招魂す。
[23] 明治二年己巳(1969)八月
[24]   西郷隆永(隆盛)誌す

参考

(注1)
さんずいに写:潟の異体字
傷のつちへん:場

本田親正(兄) 墓碑文 日置市文化財
http://photozou.jp/photo/show/1416348/267408408

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